傍観的リアル

浅瀬で釣れた沼ザリガニと申します。

の〜んびり本読みながらのほほんと生きてたら、突然「主観的リアルを捨てて、傍観的リアルと主観的ファンタジーの中に生きようと思う。」という謎の文が脳に浮かび上がり、急いでTwitterに放り投げたりしていました。

この文、わりと上手く言い表せている(何を?)気がするので、ここで色々書いとこうと思います。

 

「主観的リアルとか傍観的リアルとか、なんの話?」という事から話していきましょう。(ちなみにこれらは造語です)

主観的リアルは今感じていることです。文を読んだり、何かを食べたり、主観的にリアルを生きていればそれは主観的リアルです。(いわば人生の主人公)

傍観的リアルは事柄を傍観することです。ウクライナが戦争しているらしい、○○くん好きな人出来たらしい、これらは自分には直接関係のない事柄です。これらに対して傍観的な態度を取る(関係のないままでいる)ことが傍観的リアルです。

主観的ファンタジーは想像を主観として捉えることです。○○だったら良いのにな、○○をしたいな、という物事は、「○○ができる自分」の存在があって成されるものです。これらを、「自分」に置き換えることが主観的ファンタジーです。

さて、何を言っているのか私にはよく分かりません。わかる人いたら教えて欲しいです。

まぁ、一応の言葉の解説を貰ったので元の文を解読していきましょう。

「主観的リアルを捨てて、傍観的リアルと主観的ファンタジーの中に生きようと思う。」とは

「自分が何かを感じたりする事を捨てて、事柄の傍観と想像の中に生きようと思う。」ということなのでしょうか?

私はこんなニュアンスで言ったつもりじゃありません。「じゃあどういうニュアンスで言ったの?」わかんないです。

さて、今わかんないと言ったのは主観的リアルですね。これを「わかる」とするのは主観的ファンタジーとなります。

事実の有無に関わらず、主観的ファンタジーはそれを事実とする性質を持つようです。

さて、主観的ファンタジーがあるのなら傍観的ファンタジーはあるのか?これはかなり難しいです。恐らくあるのでしょうが、私にはそれを知覚出来ません。

「傍観的ファンタジーの事を知覚出来ない」というのは、「傍観的ファンタジーに対して傍観的リアルである」と言えるし、「傍観的ファンタジーを知覚出来ないことに対して主観的リアルである」と言えるかと思います。

マジで何一つ分かりません。浅瀬で釣れた沼ザリガニに分かる話ではありません。

なんか1mmでもなんとな〜く分かった気がする人がいたらその感覚を大切にして欲しいです。私はそういう人間と付き合いたいので。結婚を前提に。

 

では、浅瀬に帰ろうと思います。さようなら。