私の人生観をのんびり書いてみる

人生観。難しい。

まず死生観とかその辺から書いてみましょうか。

私は基本的にいつ死んでも良いと思ってるんですが、せっかくなら「面白いタイミング」「誰かに惜しまれるタイミング」で死にたいと思ってるんですよね。

この辺は私の人生の理念である「おもろかったらいい」とかその辺に関係してると思われるのですが、正直まだ死が遠い存在なのでよく分かりません。ただ、死に対して好意的な感覚を持っていると思います(死にたいとかそういうのではなく)。

次に、他者に対しての感覚でも書いてみましょうか。

私は基本的に誰かと話したり、協力したりといったことは大好きで、常に人に飢えています。

ですが、それとは別に常に「自分と相手は相容れない存在である」という、ある種の不信感のようなものを抱いているんですよね。これは育ちの環境とかその辺が関係してそうですが……あれは捨て去った過去なので忘れましょう。

さて、このある種の不信感ですが、「相手の好意を信頼できない」という面もあります。

例えば、私は誰かから信頼されたり愛されたり……といった好意的な感情を信じ切ることが出来ず、常に人を疑いながら生きて勝手に一人で苦しみながら布団をのたうち回る事が非常にあります。

何故このような思考になるのか、多分ですが「自己肯定感(厳密に言うと、他者視点の自己肯定感)が低い」というのと、「自分が他者に向ける好意的感情が自己完結してしまっている」と、「感情を信頼する根拠が分からない」というのが原因だと思います。

掘り下げていきましょう。

まず、「自己肯定感が低い」というのは何か特別なものでもなく、みんな持っていそうな「私はダメな人間なんだ……」というようなものなので、特に書くこともありません。

次に、「自分が他者に向ける〜」ですが、例えば恋愛感情が芽生えたとして、それを所謂「推し」という形式に当てはめ、その相手を傍観するだけで自身の欲求を満たしてしまう……という癖みたいなものが私にはあります。

仲良い友達に対して「遊びたい」ではなく、「傍観していたい」と思うような人間なんです。要するに気持ち悪いということですね。

最後に、「感情を信頼する根拠が分からない」ですが、これが不信感の最たる理由だと思います。

例えば、親の子供への愛というのは子供が何をしようがある程度不変なもので、私も例に漏れず親から愛されているのですが、この愛がすごく不気味に思えるんですよね。

「私はたまたまこの人の産道から生まれただけなのにどういう訳か愛されている」としか思えなくて、とても気持ち悪いんです。勿論、母性だとか進化論だとかその辺を持ち出して論理的に説明することは出来ます。しかし、私はそれを感じたことがないので分からないんですよね。

これは他の好意的感情にも言えて、「私がこの人から好意的に思われる理由が分からない」という自己肯定感の低さ故の不信感とも繋がりますね。

もうちょっとだけ他者に対しての感覚が続きます(文下手でごめんね)。

ですが、私にも信頼できる感情というものはあって、それが怒りだとか憎しみだとかの感情がそれに当たります。

例えば、人に怒られるときというのは、基本的に「自分が悪いことをしたとき」「人を不快にさせたとき」というのが該当します。これらははっきりと「〜をしたから〜になった。」という筋が通っているので、理解が出来るんですよね。

ちなみに私はこの辺を拗らせて性癖がとんでもない方向にねじ曲がっていますが、ここでは関係のない話です。

私の人生は他者の存在が大きかったので文量が長くなっちゃいましたね。次はアイデンティティとかそこら辺を書いてみましょう。

 

私は「自分に対して自分が思っていること」のようなものがなく、常に「自分に対して他者としての自分が思っていること(何を言っているんだ)」としてアイデンティティを考えています。何を言っているんだ。

ちょっと変な話が続きます。

そもそも私には「主観的な自分」と「客観的な自分」が存在しており、私のアイデンティティは「この2つに対して互いに思っていること」として存在しています。

例えば、私が何かを食べたとしましょう。主観的な自分はそれを食べて「美味しい」と思います。客観的な自分は「美味しいと感じている」と思います。何を言っているんだ。

○○を感じたとき、主観的な自分はそれをそのまま感情として表しますが、客観的な自分はそれを主観的な自分という媒体を通して感情として表しています。

なんかよくわかんなくなってきました。理解しなくていいですこれは。

とりあえず、「主観的な自分について客観的な自分が思っていること」を書いていきましょう。

(……今思えば「主観的な自分に対して主観的な自分が思っていること」もアイデンティティとして存在していました。これは全肯定自己肯定感MAX人間なので語ることは何も無いです。)

(というか、「主観的な自分に対して主観的な自分が思っていることに対して客観的な自分が思っていること」まで存在しました。この辺も混ぜときます。アイデンティティってほんとにこういうものだっけ……?)

はい、話を戻しましょう。客観的な自分(以降「私」)は主観的な自分(以降「自分」)を「他者よりは理解出来るが、私では無い」と思っています。何を言っているんだ。

自分はどういう訳か変に自己肯定感が高く、何かよく分かんないけど色々上手く行っています。

ですが私は自己肯定感が低く、あんまり色々上手く行っていません。(悪いって程じゃないけど)

どちらも「私」ではある筈ですし、同じ人生を共有している筈なのですが、どういう訳か認識に差が出来ています。何を言っているんだ。(ちなみにこれを書いているのは「私」です)

この認識の差異が私(自分も含む)を私(自分も含む)たらしめている気がします。

例を挙げましょう。運動をしたとき、自分は「楽しかった!意外と動けたんじゃない?」と思いますが、私は「全然動けなかったし、失敗ばかりだった」と思います。……どういうこと?

これは考えるだけ無駄なので、そういうものであると割り切りましょう。

私は自分のことが嫌いです。変に理解出来るが寛容ではあれないので。

ちょっと考えても何もわかんなくなってきたのでこの話終わりましょう。

 

「何故生きているのか」みたいな抽象的な事でも考えてみましょうか。お口直しです。

私(さっきまでの下りの「私」とは関係ないよ)はそんなことを深く考えたことがないです。あれ?話終わっちゃった……。浅くは考えたことあるのでその話をしましょう。

死ぬの面倒だからです。あれ?話終わっちゃった……。

 

最後に私という人間を一語ぐらいで表しましょう。

「」🐜く浅すぎて一語もないらしい