欲求とは苦痛である

人間は、欲求を解消することに快楽を感じるように出来ています。

お腹が空いたときにご飯を食べると快楽。眠たいときな寝ると快楽。

しかし、これらは「欲求によって快楽を制限されている」のです。

おなかいっぱいのときに食べても快楽ではない。眠くないときに寝ても快楽ではない。

快楽を得るためには欲求がセットになっていなければならないのです。

さらには、欲求と快楽のセットにはほぼ必ず「やらなければ苦痛になる」があります。

あまりにもお腹が空くと苦痛。あまりにも眠たいと苦痛。

我々は、「快楽の為に欲求を必要とし、その為の苦痛を味わっている」のです。

もうね、馬鹿かと。アホかと。

求めてもない快楽の為に求めてもない欲求を捻出され、それを拒絶すると苦痛を味わうことになる。

苦痛を拒絶する為には食べなければ、寝なければならず、苦痛を拒絶する為の行動では快楽は感じられないのです。(それは欲求とのセットではない為)

望んでもない食事を取り、望んでもない睡眠を取り、望んでもない明日を生きなければならないのです。

限界一人暮らし非モテ人間は頻繁に「独りで食べるご飯は哀しい。楽しくない。」と言っているが、それは当然の話である。

何故なら、本来食事は楽しくないからだ。

味や人と話すことの楽しさで食事はその隷属的快楽(欲求とのセットになっている快楽)を誤魔化しているが、結局のところ食事自体に楽しさはないのである。

隷属的快楽の本質は「欲求が満たされること」であり、我々が行動の中で感じる楽しさは隷属的快楽には由来しないのである。

そして、我々が行動の中で感じる楽しさを見失ったときに、初めて隷属的快楽のみの楽しさを知ることになり、そのあまりの空虚さに行動の楽しさを見失うのである。

その結果、欲求を満たすこと、延いては欲求の存在自体が酷く苦痛に思えるようになり、自分の人生に点在する空洞を自覚するのである。

一度隷属的快楽のバイアスが解かれた以上、再びそのバイアスの恩恵に与ることは出来ない。

我々は、単なる娯楽の一手段と化した食事を、それに付随する苦痛から逃れる為に行い続けなければならないのである。

ゲームをすることを強制させられて、それに楽しさを感じる人はそう多くはない。

同じように、食事をすることを強制させられて楽しめる人間もそう多くはないのだ。

どうか、君達が欲求の空洞に気づかないことを祈る。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

埼玉のまんこ、さいたまんこ